ロクさんのアクティブライフのブログ

自然観察を通してのシニアの元気報告を575に託してお届けします。

自然観察を中心に、アクティブに活動している様を、
写真とコメントを交えて俳句にまとめています。
毎日発信でシニアの元気報告になっています。

早春賦♫ 葦の角組み

            ウグイスまで春を告げてくれる


 氷解けさり葦は角ぐむ~♫ まさに早春賦の世界を観察してきた。一面に焼かれた鵜殿のヨシ原に「角ぐむ葦」と言われるタケノコ状の若芽が出てきた。雰囲気的には茗荷竹にそっくりだから、ひょっとしたら食用になるかも。他のことに気を取られていたので味見しなかったのが悔やまれる。
 早春賦は我が混声合唱団でも何度も歌ってきたお馴染みの曲である。春が近づくとパブロフの犬のように自然と口ずさんでいる。そのコーラスも2年間活動を休止している。コロナが収まって再開されたときに声が出るだろうか。先のことを心配するよりも、今訪れた春を満喫しようとスイッチを切替える。
 ソメイヨシノの開花宣言が近畿地方でも出揃ったようである。植栽されているサクラを観察したら5輪以上咲いていたので、我々も「ヨシ!」と開花宣言をしてきた。外来種のアブラナ科の仲間が土手の斜面を埋め尽くして、見事な春景色を作っている。
 昨日は終日の雨だったので、滅多に観ない映画の録画を楽しんだ。たっぷりの田園風景が出てくる中井貴一主演の出雲「一畑電鉄」を舞台にした鉄道映画だった。「鉄道員ぽっぽや」「阪急電車」など思い出される。イタリア映画の「鉄道員」までも。


「葦新芽 所狭しと 角を出し」

野漆(ノウルシ)


 気の早い話だがサークル「トンボのメガネ」5月例会訪問先に高槻市の「鵜殿」を計画している。その下見をしてきた。ここのヨシ原で採れるヨシが雅楽の楽器「篳篥(ひちりき)」の「蘆舌(ろぜつ)」として良質な材料だとされている。ところが鵜殿のヨシ原に高速道路の橋脚を建設する計画が持ち上がり、古来から日本の伝統文化を支え、淀川の水質浄化からも重要な役割を果たしてきたヨシ原を守ろう!と言う気運が一気に盛り上がった。何処で妥協点につながったのかは把握していないが、建設工事は進んでいる。
 今年は高槻の冬の風物詩と言われていたヨシ原焼きが3年振りに実施された。果たして5月に観察会として使えるのかの確認をしておかなければならない。ヨシ原は見事なほど焼き尽くされている。以前訪れたコースを判別できないほどの焼き野原になっている。此処には貴重植物が育つのだが、それが何処だったか探し出せなかった。
 ヨシの焼け跡にはしたたかな植物たちが芽吹き始めている。絶滅危惧種Ⅱ類にランクされているノウルシがここでは繁茂している。まだ出始めたばかりだからネコノメソウのような雰囲気を出していない。手折ると乳液が出てそれに触れるとかぶれるので「野のうるし」と名付けられた。ウルシ科ではなくトウダイグサ科で全草が毒性分を保つ薬草でもある。


「末黒野を 照らす命の 花が咲き」

黄鶺鴒(キセキレイ)

             前見て・左右見て・振り返って


 少し気温も上がる気配なので渓流沿いを歩いてみたくなった。エリアにはエドヒガンが植栽されているので、開花状況を確認してみたい。と言うのも毎年お邪魔している川西市水明台エドヒガンの森が、26日から一般公開するというので大丈夫かな? とよそ事ながら気になったからである。オープンが4月3日までと言うから時間がとれれば訪ねたいと思っている。ところが今年の異常気象だ。ソメイヨシノこそ和歌山を抜いて大阪が関西でトップの開花宣言を果たしたが、もともと野生種のエドヒガンは季節に敏感である。
 案の定、渓流沿いの桜は蕾堅しという状況で、わずかにほころびかけている1~2本が散見できた程度である。その木を我々の標準木と名付けて引き上げてきた。散歩の成果は途中で出会ったキセキレイだった。あまり飛び回らずに岩の上で恋の相手を探しているのか、四方に顔を向けていた、婚姻色鮮やかな姿を見せびらかせているようだ。
 近くではセグロセキレイもよく見かけるが、渓流まで足を伸ばすとキセキレイに出会えるのが嬉しい。さすがにハクセキレイはいない。彼らはうまく棲み分けているようだ。日本書紀にはイザナギ・イザナミがセキレイの指導で夫婦和合し「国産み」出来たと記されている話は有名である。たぶん日本固有種のセグロセキレイを注すと思うのだが。


「鶺鴒も 岩から岩へと 恋の春」

季節の変わり目

     繁茂しているキクザキリュウキンカとすくすく育つフジバカマ


 今までは三寒四温などと言って冬から春に入れ替わるパターンが予め決まっていた。暑さ寒さも彼岸までとインプットされているので耐えられたものである。ところが今年は急に夏日になったり、冬に逆戻りしたりするので季節の移ろいが読めない。
 それでも小学校は今日が学年終業式で、4月から新学年が始まる。6年生は1週間前に巣立っていった。新1年生がどれだけいるのか興味津々である。毎年ロクとの顔つなぎになっている山歩き遠足への案内も、オミクロン株が奪ってしまった。
 昨日は子ども見守り隊のメンバーに、子どもたちからお礼のお手紙を頂いた。来年もよろしくお願いします!などと言われると1年間の朝立ち苦労が一気に報われる。ちょっとした声かけが子どもたちの心に残っているようで、無駄ではなかったと思える。美しい水の星・地球と平和な日本をバトンタッチできるように、もう一肌脱ぐのもシニアに残された責務だと身が引き締まる。決して青空とひまわりの国のような戦火に巻き込ませたくない。被爆国日本も核武装をと言い出す輩をのさばらせておく訳にはいかない。今できることはウクライナへの募金と、来る参議院選挙で憲法を守る勢力への小さな一票だろう。その声が燎原の火の如く燃え広がるための発信をしたい。
 花壇や鉢植えに繁茂したキクザキリュウキンカが、しばしの太陽光を受け一面で開花している。フジバカマの新芽もたくさん顔を出してきてくれた。季節が間違いなく希望へと進んでいる。さあ今年度最後の子どもたちへの「おはよう!」を届けに出よう!


「平和への 季節変わり目 春の花」

供花を食べる犯人🔍

              何者かに囓られた供花


 お彼岸の中日を避けて京都まで墓参に訪れた。冷たい雨だったがこの機会を逃せば、もうお盆まで行かないだろう。もともと先祖を供養するなんて愁傷な気分を持ち合わせていない。年に1度ぐらいは顔を出さないと、親不孝の謗りを免れないとの強迫観念から行くだけである。と言うことで毎年欠かさずお盆に訪れていた経緯がある。
 今回は久し振りの春のお彼岸墓参である。昔は叔母などがお墓参りを楽しみにしていたので、親孝行な息子を演出するために一緒に誘い合って行ったものである。一日ずらして行ったので霊園はがら空きであった。車の一方通行も解除され駐車場もラインを気にすることなく止められる。
 雨が降っているので墓石を洗う手間が少し省かれる。ブラシでこする尻から雨が洗い流してくれる。とは言え冬に逆戻りしたので水が冷たい。供花を備え灯明と線香に火をつけ「また来るからね」と手を合わして、前日までに来られただろうお墓の供花に目を向けると、花の先が無くなっている。たぶん菊の頭花だろう。供花を食べた不届き者は誰だろうと、シャーロック・ロクは帰路の車で推理を働かせる。ヒヨドリだろうか、猿の仕業かな?閃いた犯人は鹿である。山歩きで笹などが囓られているのをよく目にする。それと同じような囓られ方をしている。お盆では観られない春のお彼岸だったからの発見。
 図書室で三遊亭好楽が出版した「今だから語りたい 昭和の落語家 楽屋話」を取り寄せてもらった。今は鬼籍に入られた懐かしい面々が登場する。同じく遠藤周作の「なつかしき人々1・2」を併せ読んだ。どちらも日本文化に貢献した方々がわんさかと登場する。まだまだ触れなければならない先人たちのなんと多いことか。


「野や山に 彼岸過ぎても 餌出ぬか」